店主について

店主(わたくし)について、少しだげ生い立ちを綴ってみようと思います。

、、少しだけと言いますのも47歳ともなると、記憶があいまいで、、。学生生活のことなどほとんど覚えておりません。

私は1972年5月10日に東京都田無市(現:西東京市)に生まれました。幼少のころから玩具を分解(壊して)してはまた組み立てることを遊びにしていて、壊れたものが再生される喜びに惹かれていきました。当時私にとってのヒーローは、スタントマンとメカニックでした。小学3年生の二学期に埼玉県狭山市に移り住みます。

中学生の頃は、美術部でした。子供の頃からアニメーションを観て育ちましたので、大人になったら絵描きかアニメーター、または工業デザイナーになりたいなぁと思っていました。1980年代ですと世の中はバイクブーム。私も純粋にバイクが好きでした。バイク屋さんになりたいなぁと思うようになりました。この頃「パリ・ダカールラリー」もブームでした。深夜ラジオが大好きだった私は、深夜にトランジスタラジオから聴こえる「パリ・ダカールラリー」の企業CMに胸を躍らせていました。「これがパリダカの全てだ!」というタイトルの子供向けの本を寝る前に布団の中で読むのも楽しみでした。兄が買ったバイクのハウツー本を読み、兄がバイクを買ったお店に一緒に行くのが楽しみでした。そのハウツー本の中に「ヤマハのXT600テネレ」の白黒写真が掲載されていました。その巨大な燃料タンクに衝撃を受けました。いつかこれに乗りたいと願うようになっていくのでした。

91年、私は高校卒業と同時に自動車の免許を取りました。この頃建築設計屋さんに就職しました。バイクの免許が欲しかった私は、18歳で就職したその年に職場に黙ってバイクの免許を取ることになります。19歳になっていました。偶然にも実店舗の近所の教習所に通っていました。その後再就職します。その先で不思議な人と出会います。お金を貯めて長期の休暇を使いオーストラリアや北海道などを旅するライダーと出合います。私の常識が初めてひっくり返った瞬間でした。常識がひっくり返った私は、私も「パリ・ダカールラリー」へ挑戦してみようと思い始めました。

翌年の10月。すっかり旅するライダーに感化されていた20歳の私は、2ストロークオイル缶をタンクバックに詰め込んで後ろに荷物を巻き付けたRZ250Rにまたがり念願の北海道(弾丸)ツーリングを決行します。2日半の北海道ツーリングでした。夜勤明け職場の駐車場を午前中に出発して、東北自動車道の浦和インターから入り夜遅くに青森のフェリーふ頭に到着、近くのコンビニの前で鍋焼うどんを自炊して、そこから深夜のフェリーで函館へ渡り、早朝から走り出して長万部を通り過ぎ、洞爺湖、昭和新山を通り過ぎ、すっかり夜になり、室蘭でフェリーに乗船し、翌朝青森のフェリーふ頭に到着。そしてひたすら東北自動車道を南下する。ただただ走り続けるだけのツーリングでした。それでも楽しかった。その記憶は今でも鮮明に蘇ってきます。長万部の海岸線の道、洞爺湖の水面に映りこむ紅葉、昭和新山の土肌、フェリーの音と匂い、みぞれ交じりの雨に打たれた東北自動車道の寒さ。そんな忙しい弾丸ツーリングを決行したのには理由がありました。どうしても20歳で北海道へ行きたかったんです。

私はすぐにオフロードの練習を始めます。初めてのオフロードバイクXLR200Rに乗り換えた私は、そのバイク屋さんのロードレースのレース活動もされていた整備士の方に「実は「パリ・ダカールラリー」に出場したいのですが、、」と相談します。そしたら奇跡は起きました。「パリ・ダカールラリー」出場に向けて準備をしている整備士の方がこのバイク屋さんで働いていたのでした。私はしばらくして大型バイク免許が施行される年を待ちきれず限定解除を始めます。8回目で合格してXTZ660テネレを手に入れました。この頃はパン屋さん、大工さん、ファミレス、お弁当屋さん、造形屋さん、で働いていていました。

97年、「アガデスで会おう」を合言葉に、レースの視察と奇跡のライダーとアガデスで再会するために、単身初めてのアフリカの目的地であるアガデスへ向かいます。その道中は本当にいろいろな奇跡が起きました。英語もフランス語も話せない私が、唯一頼りにしていたフランス語の本をフランスの空港のロビーに置き忘れたことを皮切りに、予定が狂い始めます。ジェスチャーだけの私でしたが、なぜか不思議と行く先々で出会う人に助けられました。行きの飛行機の中では、隣に座ったアフリカ系の方が実は日本語が話せたり。そんな不思議な事に驚いている間も無く、白タクに乗ったり、クレジットカードが使えなくてお金が下せなかったり、搭乗予定のアフリカン航空が欠航になったり、現地の怪しいガイドさんに出会ったり、バスに乗る予定が白タクに乗ることになったりと、いろいろな困難が立ちはだかりましたが、ゆく先々で助けていただき前へ進めました。

ニジェールの首都ニアメーからアガデスの間に位置するタウァという村。その村へは当初乗る予定のバスではなく、乗合の白タクワゴン車で向うことになりました。「バスより速い」の謳い文句(きっと)をすっかり信じてしまったのです。そのワゴン車がアガデスまで行かない事を、タウァに到着してから理解しました。日差しが照りつける中、ドア全開の車中で、アガデス行きの車の出発合図を半日近くもの間じっと待ちました。まわりには建物がほとんどなく、壁にはヤモリがたくさん。黄土色の世界。言葉がわからない為に車を離れられない。大便をしたかったけれども我慢していました。そんな中、私は人々を観察していました。積極的に商売をしている人が居たり。その逆で何もしない人が居たり。色々な人が居るんです。そして車を取り囲むようにしゃがみこんで私を見つめる人々。汗を拭う私に笑顔で招き入れるしぐさをする人。私は車から降りて3メートルほど歩いてしゃがみました。するとその人は何かを差し出します。その手にあるものは白い飲み物が注がれたボール(器)でした。なんて尊い人たちなのだろう。私はこの出来事を境に「何かに生かされている」と思うようになりました。

2000年、バイク便で働いていた私は、この年に「アラブ首長国連邦(UAE)」で開催される砂丘のレースにエントリーしていました。レース前、練習で向かった砂丘の頂上で、砂嵐に遭遇したのはとてもうれしかった。レースは散々でした。夜の小砂丘を走り切る技量がなかった私は、レース一日目に小砂丘の斜面に身をゆだねるように仰向けになりいつの間にか眠っていました。砂丘の夜は空が綺麗で、音も匂いもなく、そして寒い。翌朝ヘリが飛ぶ爆音で目覚めました。たくさんのスタッフの方に迷惑をかけていたようでした。そのままバイク共々軍用ヘリに救出されました。地上の砂丘がどんどん遠くに離れていきます。すると、私が一夜を過ごした小砂丘の2~300メートル離れたところに幹線道路が通っていたんです。ショックでした。一時はライセンス剥奪の話も出ていました。私はレース復帰の許可をいただいたものの、リタイヤを選びました。とても苦い思い出です。

01年、私は再び「アラブ首長国連邦(UAE)」に居ました。サポートとして参加する機会に恵まれたのです。

02年、私はライテクを磨きたい気持ちだけで、静岡県浜松市に移り住むことを決意します。そしてほぼ30代を浜松市で過ごすことになります。車屋さん、バイクや自動車エンジンの組立、新聞配達などをしました。この時期に2015年に起業すると目標を立てました。

07年、この年から苦手だった接客の勉強を始めます。接客の仕事を掛け持ちしました。パン屋、お菓子屋、喫茶店、ガソリンスタンド、車屋などで働きました。大好きなコーヒーの勉強をはじめたのもこの頃です。いろいろ勉強させていただきました。

11年、震災を機に、埼玉県に戻り、郵便局で働き始めました。

17年5月9日、44歳最後の日。副業として「バイク工房かざぐるま」を開業します。

19年、バイク屋さんを業にすることを決心する。

2019年、帰宅途中イノシシと遭遇。 今年は亥年でしたね、、。

友人に話したら「摩利支天」では?と。そのお姿、小柄で私には見えませんでした。

翌日バイクに乗って、上野アメ横の「摩利支天 徳大寺」へ行ってきました。

絵馬を2枚書きました。店主は欲張りです。そして出会いもありました。

店主(47歳)のザックリした生い立ちでした。偶然なのに必然と思えるような出来事が書ききれないほど沢山ありました。偶然だったことが、時間の経過とともに必然だと思えてくる。ほんと不思議です。「無駄なことは無い」ように思います。

※かなり端折りました事お許しください。